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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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星神社 -- 三基の青面金剛像

大清水の星神社は、延喜年間に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されましたが、空港事業の
関係で平成5年にこの地(成田市大清水209-11)に遷座されました。

星神社-26
星神社-28
*********三里塚街道ー31

現在地への遷座前には、駒井野613番地に天御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)を御祭神
とし、本殿・石宮・拝殿六坪、境内一四三坪、氏子六〇戸を擁する神社として記録されています。

「天御中主之命」については、「日本古代神祇事典」(平成12年)に次のように紹介されています。
【 古事記では序文の末尾と本文冒頭に記された神。冒頭部分は「天地のはじめの時、高天原に
成りませる神の名は、天之御中主神、次に高音産栄日神、次に・・・」と書き出されている天地初現
の神である。】
 (P69)

社殿の裏に大小18基の石造物が並んでいます。

星神社-27
星神社-23
星神社-82



この石造物群の中に、以前から気になっていた石仏(青面金剛)が3基ありますので紹介します。

星神社-1
   天保十四年(1843)の青面金剛像

星神社-14
   宝暦八年(1758)の青面金剛像

星神社-17
   享保十九年(1734)の青面金剛像



① 天保十四年(1843)の青面金剛像

星神社-22

左側面に、「天保十四卯年 六月吉日」と刻まれています。
天保十四年は西暦1843年、約180年前の建立です。
第十二代将軍德川家慶が老中水野忠邦を重用して行ってきた「天保の改革」が、旗本領を幕府
直轄領へ編入する政策の失敗をきっかけに失速し、幕政の迷走が目立ちはじめたころです。


星神社-11

三眼六臂の立像で、左上腕には法輪、中腕には弓、下腕にはショケラ、右上腕には錫杖、中腕
には剣、下腕には三叉戟を持っています。


星神社-4

怒髪の中にドクロがありますが、風化のため何やらかわいらしい表情になっています。



星神社-3
星神社-5

この青面金剛像にはちょっと変った特徴が見られます。
何だか分かりますか?

そう、心なしか俯いているように見えるのです。
そして、本来憤怒相であるべきお顔が、微笑んでいるように見えるのです。


三里塚街道ー35

光線の加減にもよるのですが、俯き加減に微笑んでいるように見えませんか?
これまでたくさんの青面金剛像を見てきましたが、これほど柔らかい表情の像はありません。


星神社-6 

ショケラは合掌しています
星神社-12

足下には踏みつけられた鬼
星神社-7 

三猿は風化が進んでいます 
星神社-8



② 宝暦八年(1758)の青面金剛像

星神社-13

天保十四年の金剛像の隣に立っているこの金剛像は二つに折られて、顔を削られています。
おそらく明治初期の廃仏毀釈によって受けた損傷でしょう。

宝暦八年は西暦1758年、約260年前の建立です。
この時の将軍は第八代德川家重です。
病気による言語不明瞭だったため評価の低い将軍でしたが、大岡忠光や田沼意次などを重用
し、彼らを通して堅実な政治を行ったとの評価もあります。


星神社-14

星神社-15

「宝暦八寅天 三月吉日」の文字が読めます。
260年以上前の建立にしては隣の天保十四年の金剛像に比べて風化は進んでいません。
材質の問題でしょうか?

体の正面で合掌し、左上腕に法輪、下腕に弓、右上腕に剣、下腕に矢と三叉を握っています。

台座には「駒井野村講中」と刻まれています。
この金剛像建立の時代の駒井野村は佐倉藩に属していました。
明治二十二年(1889)の町村制施行により下埴生郡遠山村駒井野となり、明治三十年(1897)
に印旛郡遠山村駒井野、昭和29年(1954)の昭和の大合併で成田市に編入されました。


星神社-80
星神社-81
*******星神社-79

ノミでも使ったのでしょうか、顔の部分がザックリと削られています。
顎の下、まるで首をはねるように、二つに折られています。
成田近郊での廃仏毀釈運動はさほど激しいものではなかったようですが、この青面金剛像の
破壊者には仏教に対する強い憎悪があったのでしょうか。


*******星神社-78
星神社-77

よく見ると、金剛の左右には向い合った鳥が描かれています。
一見、鳩のように見えますが、これは鶏(ニワトリ)で、徹夜で行われる講の終了を告げる鳴き声
を象徴して刻まれることがあります。
また、「申」が明けた翌日は「酉(トリ)」であることを表しているとも言われています。



③ 享保十九年(1734)の青面金剛像

星神社-16

この金剛像は珍しい四臂像です。

中央で合掌し、右上腕に戟を持っています。
左上腕が何を持っていたのかはわかりません。
掌を開いているように見えますが、風化のためか持ち物が見えません。


星神社-18

三猿はしっかり見えています。


星神社-17
星神社-76

憤怒相ですが、丸顔の愛嬌のあるお顔です。
口を少し開けて、歯が見えているようです。
牙が見える石仏は珍しくもありませんが、普通に歯並びが見える石仏は見た記憶がありません。


星神社-16

四臂の青面金剛像は珍しく、私の記憶では野毛平の東陽寺跡に立っている二基のうちの一基
のみです(まだ見つけていない像があるとは思いますが)。

青面金剛・東陽寺-16
  (野毛平・東陽寺跡の四臂青面金剛像 2015年5月撮影)

この像は四臂像で、左手上腕に月輪、下腕に錫杖を持ち、右手上腕に金剛杵を、下腕に
羂索を持っています。


星神社-72

刻まれている文字は、向かって右側に「●庚申待信心本願三十三人」「●結衆二十人」、左側に
「●享保十九甲寅三月」と読めます。
「結衆」の部分は「繕衆」または「結兵」とも読めるような気がしますが、ここは仏教的な意味で「ある
ことを目的とした集まり」である「結衆」だと思います。
庚申講のメンバーが33名、そのまわりに20人の同調者がいたと想像してみました。


星神社-75

享保十九年は西暦1734年、約290年前の建立です。
将軍は第八代德川吉宗。 享保の改革と呼ばれる諸改革を行い、特に幕府の財政再建を実現
させた名君です。



星神社-84

星神社-83

約1100年前の延喜年間(901~923)に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されたこの神社の
本殿には、千葉氏の家紋である「九曜紋」が掲げられています。


星神社-70


空港事業のために移転する前の駒井野には二つの星神社がありました。
昭和62年に発行された「千葉県神社名鑑」には、
星神社  駒井野88  <祭神>天御中主之命(アメノミナカヌシノミコト)
               本殿 1坪  境内 100坪  <氏子> 60戸
星神社  駒井野613 <祭神>天御中主之命(アメノミナカヌシノミコト)
               本殿・石宮・拝殿 6坪  境内 143坪  <氏子) 60戸
と記載されています。
また、大正2年に発行された「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、
星神社  駒井野村字高芝    間口一尺五寸 奥行一尺二寸
                    境内 一二〇坪  氏子 五〇戸
星神社  駒井野村字舘曲輪  間口五尺五寸 奥行四尺
                    境内 一四〇坪  氏子 五〇戸
と記載されています。

両社とも、現在のさくらの山公園とビューホテル、空港通りに囲まれたあたりにありました。
駒井野613(舘曲輪)の移転とともに駒井野88(高芝)も現在地に合祀されたものと思われます。

本殿裏の石造物群は、その時に両社の境内や近隣の路端などから集めたのでしょう。
今回とりあげた3基の青面金剛像は、一見何の変哲も無いありふれた金剛像に見えますが、
よく見るとなかなか興味深い、個性的な金剛像でした。


星神社-20

星神社-71



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以前にも何回か解説をしてきましたが、あらためて庚申信仰についておさらいをします。

青面金剛は「庚申塔」に刻まれます。
青面金剛は、中国の道教思想と日本の民間信仰である庚申信仰の融合によって生まれた尊格
で、庚申講の本尊とされ、三尸(さんし)を押さえる存在とされています。

「足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ
(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。 頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に
巻き付いている場合もある。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。 彩色される時は、
その名の通り青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係しているとされる。」

(ウィキペディア 青面金剛)

人間の体内には、三尸(さんし)という三匹の虫が棲すすみついていて、庚申(かのえさる)の日
に寝ている宿主の体内から抜け出して、天帝にその人の悪行を言いつけるとされています。
天帝は悪行を聞くと、罰として寿命を縮めてしまうので、庚申の夜は眠らずに酒食をとりながら
過ごして、三尸虫が体内から出ることができないようにするのがよい、とされています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願い、天帝にご注進をする機会を
狙っています。

台座に三猿を刻むのは、庚申の申(さる)からきたものといわれ、三尸虫の告げ口を封じる意味
で、もし悪行を見られても「見ざる・言わざる・聞かざる」になって天帝に伝えないでもらいたいと
いう願いが込められています。
*****青面金剛-0
              (左から下尸、中尸、上尸)       (ウィキペディア)

上尸(じょうし)は頭部に、中尸(ちゅうし)は腹部に、下尸(げし)は足に棲んでいます。

貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、「庚申講」を三年(十八回)続けると
「庚申塔」を建てることができます。

「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。

眠らないように酒を飲み、歌い踊る庚申講の集会は、徐々に宗教的行事から離れた娯楽の
側面を強くしてきました。
月待講にも共通した傾向がみられますが、日常生活の苦しみから解放されたい庶民の数少ない
楽しみだったのでしょう。

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                               ( 星神社  成田市大清水209-11 )




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

青面金剛(庚申塔) | 16:25:52 | トラックバック(0) | コメント(11)
気になる石仏・青面金剛(2)~押畑の山中に佇む三基の金剛像

今回は気になる”石仏シリーズ”青面金剛編の2回目です。

庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛
像」が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」 (瓜生 中 著 平成16年
幻冬舎)では次のように解説しています。
『 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病
神として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を
身につけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られ
るのは六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになった
のは、中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。』 (P224)



押畑の山中、「押畑稲荷神社」を越えた先の三叉路に、三基の「青面金剛像」が建っています。
普段は人の通らないような道ですが、昔はそれなりに主要な道だったようです。


青面金剛-36

真っ直ぐに進む道は昔は先まで続いていたようですが、今はすぐに竹林に阻まれてしまいます。
左に折れる道(子安神社が見えています)は、延々と山中に伸びています。


青面金剛-15

直進する道端に建つ「青面金剛」像。
延宝八年(1680)の建立です。
この年は、四代将軍家綱が亡くなり、綱吉が五代将軍になりました。
延宝五年から六年にかけて、三陸や房総沖などで立て続けに大地震があり、世相は落ち着が
ない空気に包まれていました。

「下総國香取郡埴生庄押畑村惣結願造立迄敬白」と刻まれたこの像は、340年も前のものとは
思えないほど造形がしっかり残っています。


青面金剛-16

太い眉の迫力ある忿怒相です。


青面金剛-18
*****押畑稲荷ー24

三眼六臂の像は、右(向かって左)上腕は戟を、中腕は剣を、下腕は弓を持ち、左(向かって右)
上腕は法輪、中腕はショケラ、下腕は弓を持っています。


青面金剛-19

シンプルは彫りですが、三猿もしっかり見えます。



押畑稲荷ー18

三叉路の角はちょっとした崖になっていて、その上に二基目の青面金剛像が建っています。
目線よりだいぶ上の位置にあり、竹林にも邪魔されて、見過ごしてしまいそうです。


青面金剛-20

正面には文字らしきものが見当たらないので、子安神社の裏に回ってみました。
足場が悪く、近づくのは危険ですが、側面の「天明■■巳十一月吉日」の文字が読めました。
天明年間で“巳”が付く年は五年だけですので(乙巳)、天明五年(1785)の建立です。

この像が建立された天明五年は、天明の大飢饉の真っ只中でした。
「天明の大飢饉」とは、天明二年から続く天候不順に、同三年の岩木山噴火及び浅間山噴火に
よる大被害が加わり、東北地方を中心に同八年まで続いた近世最大の飢饉です。


青面金剛-23

何となく優しげで、忿怒相と言うより菩薩相のような顔に見えなくもありません。


青面金剛-27

三眼六臂で、右(向かって左)上腕には剣を、下腕には弓を、左(向かって右)上腕は法輪、
下腕は金剛杵を持ち、中腕は合掌しています。


押畑稲荷ー19

足許には踏みつけられた邪鬼が、台座には三猿が刻まれています。



青面金剛-32
青面金剛-28

三叉路の入り口左上に三基目の青面金剛が建っています。
「正徳甲午正月吉日」
「奉造立庚申待下総國香取郡埴生庄」

と刻まれています。
正徳年間で干支が甲午となるのは四年ですので、西暦1714年の建立です。

正徳四年は七代将軍家継の治世で、貨幣の改鋳やあらたな発行などが行われました。


青面金剛-31

頬を膨らませた忿怒相で、ちょっと愛嬌がある顔つきです。


押畑稲荷ー20

三眼六臂の像で、右(向かって左)上腕には戟を持ち、下腕には剣を持ち、左(向かって右)
上腕には法輪、下腕には弓を持って、中腕は合掌しています。


青面金剛-35

三猿は他の二基より大きく彫られています。




青面金剛-37

三基の青面金剛像が見守るこの三叉路は、かつては重要な道だったのでしょう。
今では人通りのない寂しい山道ですが、(地形的にやや無理があるかもしれませんが)旧佐原
街道のような気もしますし、あるいはその支道なのかもしれません。
ここから左にしばらく進んだ先には小さな祠の「白幡神社」があります。


押畑稲荷ー73
押畑稲荷ー74   (平成15年7月撮影)

「白旗神社」の多くは源頼朝をご祭神としますが、源義家、義経などの源氏の武将や、源氏の
氏神の八幡神をご祭神とするものも多くあるようです。

大正三年の八生村誌には次のような記述があります。
〔押畑元押旗ニ作ル源頼義奥州征討ノ際、此地ニ次シ、旗ヲ押シ立シヨリ因ミテ押畑ト云フ由。
同地廣臺ニ白幡神社アリ、其跡ナリト云ヒ傳フ。〕
 


また、「千葉縣印旛郡誌」にも、
〔・・・源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時・・・〕
との記述があることから、「白幡神社」は現在の姿はともかく、押畑地区のランドマーク的な存在
であったことでしょう。
その「白幡神社」へと続くこの道もまた、重要な道であったはずです。


三基とも六臂像なのですが、持物は少しずつ異なり、同じ物でも持つ手が異なっています。

押畑稲荷ー23  
***押畑稲荷ー19  
******押畑稲荷ー20  

今から340年前の延宝八年の青面金剛、その34年後(306年前)の正徳四年の青面金剛、
そして105年後(235年前)の天明五年の青面金剛。

三基の金剛像は、その昔交通の要所であった三叉路を、今も見守っています。


****押畑稲荷ー61




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

青面金剛(庚申塔) | 17:33:26 | トラックバック(0) | コメント(2)
気になる石仏・青面金剛(1)~消えた寺に取り残された二基の青面金剛

青面金剛(しょうめんこんごう)は、青面金剛明王とも呼ばれ、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰に結びつきました。
像容は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索を持ち、足下
に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されます。
実際に目にする像は、邪鬼を踏みつけ、六臂(二臂・四臂・八臂の場合もあります)で、
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いようです。
彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。



青面金剛・東陽寺-10

前回の「首無し地蔵」があった神光寺から、ほんの50メートルほど行くと、道端の小高い場所
に二基の青面金剛像が立っています。


青面金剛・東陽寺-24
東陽寺ー2
*******東陽寺ー3

左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸願成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
前年の享保五年(1720)に江戸で大火があり、それを機に江戸火消しが組織されたり、翌年
の享保七年には小石川養生所が設置されたりした、八代将軍徳川吉宗の時代です。
江戸町奉行の大岡越前守や赤ひげ小川 笙船など、時代劇で多く取り上げられる人物が活躍
していました。

右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。


青面金剛・東陽寺-19

こちらの青面金剛像は六臂のうち、中央で二臂が合掌し、左手上腕には法輪、下腕には弓を
持ち、右手上腕には三叉戟を、下腕には矢を持っています。
足許の両脇に鶏を配し、邪鬼を踏みつけています。


青面金剛・東陽寺-27
青面金剛・東陽寺-4

さらに、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を刻む形で、額には第三の眼があります。
この第三の眼と鼻の周りは無残に削り取られていますが、残された部分から、削られる前は
キリッとした三眼の忿怒相であったことが想像できます。


青面金剛・東陽寺-20

こちらは比較的新しい時代のものに思われます。
「区内安全」の文字や、「野毛平区 沢田○平 八十七才」などの文字から、明治二十二年の
町村制施行によって、この地区が下埴生郡中郷村野毛平となって以降の建立であろうと推測
することができます。


青面金剛・東陽寺-16

四臂像で、左手上腕に月輪、下腕には錫杖を持ち、右手上腕には金剛杵を、下腕には羂索
を持っています。
珍しい組み合わせですが、いずれも青面金剛の持物としてたまに見ることがあるものです。
月輪は、庚申講が夜を徹して行われることから、日輪と共に刻まれることがあります(この像
の隣の金剛像には、頭上の左右に日輪・月輪が刻まれています)。
右手上腕は経巻のようにも見えますが、刻まれた紋様から金剛杵であろうと推理しました。
錫杖、羂索は比較的良く見られますが、この四つの組み合わせは見たことがありません。


青面金剛・東陽寺-28

第三の眼も確認でき、顔面を削られた痕もないことからも、この像は、廃仏毀釈の被害を
受けたと思われる隣の像よりずっと後の時代に建立されたものであることが分かります。


二基の青面金剛の背後には空き地が広がっています。
ここにはかつて「東陽寺」というお寺がありました。

青面金剛・東陽寺-14


初めて訪ねた4年前には、すでに荒れ果てた寺でした。

東陽寺ー9
                                          (2015年5月 撮影)

「東陽寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「妙照山」。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。

一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡小菅村
妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。】
(「下総國下埴生郡野毛平村誌」 明治十九年) 

永禄三年に織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、同四年には上杉・武田の川中島合戦が
繰り広げられ、同八年には「永禄の変」で将軍・足利義輝が暗殺されるなど、血なまぐさい
戦国時代の真っただ中に東陽寺は開山されました。

その、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てていました。


東陽寺ー10
******東陽寺ー11
***********東陽寺ー12

青面金剛・東陽寺-12

そして今、崩れかけていた東陽寺は消えてしまいました。
崩壊の危険があるので、取り壊されたのでしょう。
雑草もあまり生えていないので、つい最近更地にされたようです。


青面金剛・東陽寺-13

境内の奥の墓地は竹と雑木の中に沈んで行きます。


青面金剛・東陽寺-1


成田空港の開港はここ野毛平地区の住民の生活を一変させました。
昭和46年に騒音地域となって、集団移転地区に指定され、新たに造成された米塚団地や
近隣地域に多くの人々が移転して行きました。


東陽寺ー25 (2015年5月 撮影)

青面金剛・東陽寺-11

人々の往来がなくなった山道。
背後にあった450年の歴史あるお寺も消えてしまった山道で、二基の青面金剛は、いま
三つの眼で何を見ているのでしょうか。



AAA野毛平地図

                          「妙照山東陽寺」   成田市野毛平614-2




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青面金剛(庚申塔) | 19:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)